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天神さん;携帯小説

天神さん,菅原道真さんを携帯で気軽に読める小説に仕立てました。
モバイスでも読んで下さい。

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2017/05/24(Wed)01:44

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みそ一文字

2007/02/09(Fri)22:26

☆☆☆☆今は,やたらと自由にあふれているため なんか 詩なども読んでいて良い感動に出会い難いと思いませんか。俳句も その三十一文字の不自由さ故に できばえの良さがよくわかるのだと思うのですが アムロとかの若いたちがミニスカートで媚びるように歌ったりするのを見ていたら なんか こちらが恥ずかしくなるやら,なんかとっても・・・・・いい感じですね。 (ゴメン)

 漢詩を作ると言うことは漢字の知識もあったという事ですね。今なんか,漢詩を読むことすらできない人もいるというのに,いやはや かんしんします。そして15歳で元服して,文章生を目指します。父の是善は試験が近づくと 毎日作詩を命じました。そしてそれに指導を加え

るのですが,口先だけで「勉強しろ」と言っている今のお父さんとは気合いの入れ方が違います。どうですか,今日は早く お家に帰りたくなったでしょう。

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No.15|天満宮Comment(0)Trackback(0)

哀れ,道真さん

2007/02/02(Fri)15:13

 道真公は太宰府に流されてからは いい生活とはいえませんでした。都の貴族ですから、それなりの待遇はあったと思いますが、それでも憎まれての左遷ですからね。今でしたら、心機一転 がんばれば、戻ってこれることもあり得ますでしょうが,当時の藤原氏の勢力は並大抵ではなかったのです。しかし歴史的に見ると気合いで復活した人もいます。承久の変で隠岐に流された後醍醐天皇も自力で帰ってきて復活したし、現代サラリーマンでも そのような人を私も知っています。もっとも寅さんではないけれど目方や気合いやだけで 男が量れたら 私なんかももっといい暮らしが送れるのでしょうけれども・・・・・・・・・・グスン。

No.27|菅原道真Comment(0)Trackback(0)

な・・・そ その使い方

2007/02/02(Fri)15:07

 前回は古文の熟語で「な・・・・・そ」というのを説明しましたが, ついでに「な・・・・そ」に似たもので「・・・を・・・・み」というのがありま
す。これは「・・・が・・・・ので」という意味です。
 
       瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の  
                われても末に  あわんとぞ思う 
 
 この歌は崇徳院の歌です。百人一首にも載っています。
 
 浅瀬の流れが速いので 岩に邪魔されて 流れが二つに分かれても すぐに元の流れとして一つになるよだから私たちも今は邪魔されて別れ別れになっても いつかは きっと 添い遂げることはできるよ といった意味です。この表面上は何気ない自然を詠っているだけでも その裏には熱烈な 恋心が流れているので。・・・・・何か いい感じですね。日本の文化には かつては このようなすばらしいものがあったのです。しかし歴史を検証するに それもたった40~50年ぐらい前までは このような 含みをもった会話が成立していたようなのですから もったいないですね。やはり このようなことは できるだけ継承したいものです。

 では早速 今日 家に帰って「今日は すしをうまみ、帰宅が遅れた。なおこりそ」と奥さんに言い訳してください。たぶん 許してもらえますよ。ただし、上にぎりのおみやげが、必要条件です。・・・・・・・・検討を祈ります・・・・・。

No.26|雑学Comment(0)Trackback(0)

な・・・・そ:その意味

2007/02/02(Fri)15:05

また 歌の中に、「な・・・・そ」というのがありますが、これは「どうか・・・・・してくれるな」という意味で

す。たとえば「な恨み給いそ」とは「どうか恨んでくださいますな」ということになります。この言葉の語感が非常に柔らかく聞こえ、そ

れまで絶頂を極めていた人のどうしようもない運命に対するあきらめみたいなものを感じませんか。 ああ哀れなるかな・・・・・

No.25|雑学Comment(0)Trackback(0)

東風の歌

2007/02/02(Fri)15:04

 春になり 東風の吹く頃、この庭(今住んでいる京にある)の梅の花よ、必ず咲いておくれ、たとえ あるじは太宰府に流されていないとしてもどうか春を忘れないでおくれ、梅が咲けば、その匂いは東風にのって太宰府までとどくであろうから・・・・・・・。

といった感じでしょうか。目をつむってこの詩を詠んでいる情景を思い浮かべてください。広い庭の大きな梅の木と対峙して、道真公が梅の木に語りかけながら(たぶんいろいろな思い出を共有していた梅なんでしょう)政争に負けて如何ともし難い思いを、はかなさを詠んだ

歌です。さらに、この歌は 今いる京と まだ見ぬ不安のいっぱいな太宰府を風で結ぶことによって雄大なスケール感を感じさせる、そんなところも私は好きなのです。

No.24|菅原道真Comment(0)Trackback(0)

東風ふかば・・・

2007/02/02(Fri)15:02

          東風ふかば
            匂いおこせよ 梅の花
            主なきとて   春な忘れそ
 
これは菅原道真公が京から太宰府に流されるときに呼んだといわれる歌です。私の大好きな歌です。
 東風(こち)とは春の季語。同じく「春の風」という言葉もあるのですが、それより言葉が短い文だけ語気が強く感じられます。春風という柔らかさより少々寒い感じがあります。派生語に強東風、朝東風、夕東風があります。ちなみに「てんこち」は魚です。

No.23|天満宮Comment(0)Trackback(0)

流浪の道真:菅家

2007/02/02(Fri)15:00

 ともかく 菅原道真公は昌泰4年(901)太宰府権師として太宰府に左遷されることになりました。大阪の天神さんはその旅の安全祈願のために立ち寄ったということから菅原道真公を祀っているということらしいのです。また,旅の途中に大三島(広島)にも立ち寄ったらしいのです。大三島では今でも「菅」(かん)という姓があります。私の友人にもいますし,教え子にもいます。嘘か まことか 友人自身は真顔で先祖は菅原道真だといっています。その割には 出来は良くないような感じがします。(失礼)みなさんの知り合いに もし菅という姓の方がおられたら「大三島出身?」と聞いて見てください。多分,当たると思います。そういえば,あの菅元厚生大臣はどうなんでしょうね。

No.22|雑学Comment(0)Trackback(0)

いよいよ左遷:道真

2007/02/02(Fri)14:58

さて お話を元に戻して,菅原道真さんですが,この右大臣職は藤原家の牽制のために 宇多天皇が任命したのです。しかし 藤原時平は菅原道真を失脚させようとするのです。

 菅原道真が右大臣になったのは,宇多天皇が理想に思っていた政治ができなくて,次の帝に位を譲るに当たり 藤原氏の牽制の意味がありました。そして899年に右大臣職に就いたのですが,2年後の901年(延喜元年)の正月,先帝を欺き今上天皇を廃して別の天皇を立てる企てを持ったという理由で太宰権帥として左遷が決まりました。この処分は宇田上皇に知らされず,即座に断行されたため,どうしようもなかったようです。後年,様々な人が検証しましたが,確かに,菅原道真の娘が天皇の弟の斉世親王(ときよしんのう)に嫁いではいましたが,どうも そのような気配はなく,無実であったと考えられています。

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家相,風水

2007/02/02(Fri)14:56

 この考えが家相の原型になっています。そのあと風水だとか,諸子百家の様々な言葉に影響を受け 考えが合わさって,今の家相となっています。だから家相にもいろんな流派があります。私は建築の設計監理業務に関わっていますが,基本的には家相にこだわりません。お客

様がどうしてもと おっしゃるときには従います。家相は人生の失敗のいいわけになるという意味では有効なものです。つまり,仕事がうまくいかなくて本当は自分のやり方が悪かったのに家相のせいにすると自分を追い込まなくてすむ,そうこうしているうちに 時間的解決

が図られ,うまくいくようになる,そういう点で逃げ道の一つであるから むげに無用とは言えないと思います。(ただ建築家に文句を言われるのは筋違いでしょ) しかし今まで 家相にこだわらなかったからといって不幸になられたオーナーはいません。むしろ年回りだからといって急いで工事をしたときには,あまり良い出来ではなかったです。だからこだわるオーナーの時は オーナーとじっくり話し合い,合意の上で進めるようにしています。

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出る杭は打たれる:道真

2007/02/02(Fri)14:53

さて最高の昇進を遂げ,かつ当時の宇多天皇の信頼を一身に受けてきた菅原道真公ですが,当時は藤原氏の力が強く,ぼちぼち出る杭を打ち始めるようになります。 
 菅原道真公は その後 権大納言を経て昌泰2年(899)五十四歳で右大臣となりました。時の左大臣は藤原時平です。これは藤原氏にとっては大変な屈辱だったと思います。藤原鎌足(大化改新)以降,常に政治の最高峰に経ってきた藤原氏と比肩するところに菅原道真がついたのですから,烈火のごとく怒ったと思います。

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左大臣・右大臣

2007/02/02(Fri)14:53

 みなさん,左大臣と右大臣 どちらが右でどちらが左かご存じですか。天皇の位置から見て右が右大臣,左が左大臣です。皇居から南向きに見て 右京区左京区となっているのもこのためです。ちなみに 平安京は中国伝来の地相である「四神相応の制」という都市造りの決

まり事に則って造られました。北に玄武(黒い亀),東に青竜,南に朱雀,西に白虎の神が守ってくれるというものです。それぞれが,北方の丘陵,東方の流水,南方の低地または池,西方の大道に宿るといわれます。平安京の場合,北の山々(小倉山:今のとは違うらしい)

東の加茂川南の宇治,西の山陽道,山陰道といったところで 平安京は非常に地相がよいといわれました。「四神具足」「四地相応」ともいわれ,都市宅地 墓地に応用されました。もしそういった条件が揃わなかったら,それぞれの方角に檜3本 柳9本 桂9本 楓7本を

植えればよいそうです。何年か前にに大野安麻呂の御陵が発見されたとき,玄室に書いてあった絵がこの玄武,青竜 朱雀 白虎だったのです。

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ジェラシーと出世:道真 危うし

2007/02/02(Fri)14:48

 さて宮中では最初に少内記となり詔勅の起草に当たり,民部少輔に転じて民政のことを司りました。貞観19年33歳の時式部少輔となり,文章博士を兼ねました。この二官は父祖共任ぜられたものであり 当時の学者の最高の名誉としたところのものであったようです。しかし学者が宮中にはいるのはどちらかというと嫌われて 菅原道真のように 博士の資格を持つ官は風当たりの強いものであったようです。当時は互いに熾烈な競争して相手をそしり,人を失敗に陥れるようなことがありました。スキャンダルをリ-クする官がいるのは 今だけではありません。   

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国家試験:成績優秀な道真

2007/02/02(Fri)14:46

 貞観4年 18歳で文章生となり,同9年文章得業生に進み,同18年には最高の国家試験である方略試に合格しました。今で言う上級国家公務員試験ですね。当時は勤めるところが大手民間企業など無かったから宮中に入らなければならない,そこで出世するにはこの試験に受からなければならない。ということで大変だったようです。これは唐の科挙(かきょ)という官吏登用試験制度をまねたもののようですが,やはり今と同じで予備校もあったということです。道真公が 後日 その頃を述懐した詩の中に「日月は常に足らなかった。寸分を惜しんで友人と談笑もせず,妻子と親しみもしなかった」と詠っています。そうしてやっと官途につけたわけです。今,受験地獄とか言われますが,当時の方が もっと大変だったのかもわかりません。

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道真の文才

2007/02/02(Fri)14:43

 今まで菅原道真の栄光から失脚までを概論的に述べてきましたがもう少し細かくお話を致します。

 菅原道真の父祖2代にわたって高名な学者であったのですが,菅原道真自身も非常な勉強家でした。それには母の良妻賢母ぶりが伝わっています。道真は是善の第三子でしたが,多分早世したらしく兄たちのことはあまり伝わっていません。昔は医学があまり発達していなかった

ために 若死にすることが多かったようです。道真は一家の期待を込めて育てられ,その母は幼き道真の健康に気を使いながらも 家風を継いで立派な学者になるよう日夜肝胆を砕いたようです。いわば今の教育ママですね。道真は11歳で初めて作詩をしたそうです。作詩といっても 今の詩ではなく漢詩ですよ。

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菅原道真の経歴

2007/02/02(Fri)14:41

 さて菅原道真さんは寛平3年(891)蔵人頭となり,同6年(894)遣唐使に任命されましたが,その廃止を提案し,実施されました。これ以降 遣唐使は廃止になったのです。遣隋使が推古天皇の西暦645年ですから約150年続いていたわけです。この廃止の理由はいろいろ

いわれています.菅原道真が進言したのは貴族の惰弱な面だと主張する人もいるようですが,この遣唐使派遣も前回から56年の歳月が経っていたし(毎年送っていたわけではないのです),途中遭難の恐れも今とは違って大いにあったし,やはり 唐自身の勢力が無くなったのが第一でしょう.ちなみに唐が晋に滅ぼされたのが936年です。

 その後 道真公は 権大納言を経て昌泰2年(899)後醍醐天皇の時 右大臣にまで昇進しました。しかし延喜4年(901)藤原時平のために太宰府に左遷されることになりました。そして菅原道真公の一家は息子達も地方にとばされて 一家離散の憂き目にあいました。

その当時の権力争いは すごいものがあったんでしょうね。しかしそれが故に菅原道真公が有名になり 神にまでなったのです。そのきっかけはまた 偶然の時代背景と重なりがあり,いと おかしきことです。

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菅原道真の和歌

2007/02/02(Fri)14:39

菅原道真さんは前回もいったように文才に恵まれ,多くの詩歌を残しています。みなさんもご存じの小倉百人一首にも選ばれています。
 
        このたびは ぬさもとりあえず 手向山
                  もみぢのにしき かみのまにまに
                                                             菅 家
 
※このたび・・「この度」と「この旅」の掛詞
 ぬさ・・・・・・(幤帛)神に供えたり祈るときに捧げるお供え物で小さく切った絹布や紙でできたもので 神主さ
んがお払いで振っているのをよく見かけますね。それよりもっと大きなものをイメージして下さい。
 神のまにまに・・神の御心に任せます
菅家・・・・・・・菅原道真の敬称
 
歌意:今度の旅はお供の慌ただしさで幣帛(ぬさ)も用意す
ることができませんでした。ですから,この手向け山のもみじの美しい錦織のようなのを神の御心のままに幣帛としてお受け取りください。

 もみじの美しさが目に映り厳粛なる精神が伝わってくるような感じがしませんか。ところで みなさん 「もみじ」という字は「紅葉」とも「黄葉」とも書けるのをご存じでしたか。ただそれだけの話ですが・・・

 「菅家」菅原道真の尊称です。この歌は宇田上皇の吉野の宮滝御幸に供奉したときのものだそうです。

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