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天神さん;携帯小説

天神さん,菅原道真さんを携帯で気軽に読める小説に仕立てました。
モバイスでも読んで下さい。

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2017/06/26(Mon)00:41

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ご先祖

2007/10/29(Mon)19:20

話を元に戻して 野見宿禰は垂仁天皇の皇后の日葉酢媛(ひよすひめ)が崩御されたとき,殉死の禁が発せられると 埴輪をもって殉死に代えることを提案した人です。それによって土師部(はじべ)の姓を賜ったということです。しかし土器の制作と葬礼を司る職なので高級貴族の仲間入りはできなかったようです。しかし桓武天皇の外祖母が土師部出身だったことから幸運が訪れ,やがて菅原,大江,秋篠に分家し 発展したようです。土師部から菅原家への移行のいきさつはよく知りません。どなたか教えてください。
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天才的な父親

2007/10/22(Mon)19:16

 話を戻して父である菅原是善さんも祖父も文学では有名な方でした。道真さん自身も幼き頃から文才に恵まれ,いろいろな逸話と和歌,著書などを残しています。17歳で文章生(もんじょうしょう),32歳で文章博士となったことからも 学問文才に恵まれた方であったことがわかります。当時の宇多天皇の信任を得て 藤原氏を押さえるために重徴されました。編書として「日本三代実録」「類聚国史」 詩文書「菅家文草」「菅家後集」などが有名です。

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道真の両親

2007/10/18(Thu)19:11

さてさて 道真さんのお父さんは菅原是善,お母さんは伴氏の系列の方のようです。伴氏は大伴の系列です。伴大納言とか,大伴家持など これ又 文学に関係の深い家系です。ところで当時は女性の名前は公式文書にははっきり記載されていなくて,たとえば“右大将道綱母”とは藤原道綱の母といった表現になっており,正式な名前は残っていないそうです。清少納言も清原元輔の娘だったために清原家の少納言といういわば家の中での位置づけが通称となったものです。どうもニックネームが今では正式名称で残っているようですね。

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日本の失われつつある文化

2007/02/23(Fri)01:02

 昭和30年頃から始まった高度成長時代に 市民の都市集中化が起こり,経済力のアップに伴って“持ち家思考”が生まれました。 歴史的に見ると 日本は賃貸住宅型で 経済力のある大家さんが借家を建て,そこに田舎からきた人が借りるというのが本流だったのです。今は亡き加藤大介主演映画の“大将”(だったと思うのですが)を見ていると愛媛の片田舎から出てきた主人公が 相場で商いし裕福になるに従って,間借り→借家→瀟洒な一軒家→ 豪邸,そして それを手放すといった社会の縮図のようなものが描かれています。私は思うのですが,住宅というものは 本来 建てられる人がゆとりを持って建て,メンテナンスにもある程度お金をかけるというようなものではないかと思うのです。今 やすく建てることにより,日本人の美意識にも関わる“長押”“床の間”などが無い家が増えきている。寂しいことです。

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神道について

2007/02/20(Tue)20:52

ちょっと 堅くなりますが,少し 神道のことをお話ししましょう。でも 後半部分は諸説入り乱れていますので,それを念頭において お読み下さい。
神道は 憔神道(かんながらのみち)とも言われる日本固有の民俗信仰です。・・・・・年輩諸兄は 既にご存じかと思いますが 若い人のために少々おつきあい下さい。私は若いけれど知ってましたよ。えっ もう若くない?これはお見それしました。
 続いて言いますと 特定の神域に神饌(しんせん)をそなえ,音楽歌舞で神を慰め,恵みを請う呪術から出発し,やがて社(やしろ)を建て,そこに神を祀るようになりました。
 神社には必ずある鳥居の起源ですが,東南アジアのある民族の住宅の門がちょうど鳥居状になっていて その門構えの上に木で作った「鳥」の飾りものがあるというのをTVでみたことがありますが,建築家としては ちょっと気になりますね。ちなみに 北区の我らが天神さんの鳥居ですが,前のものは石でできていて,このご近所の石船石材さんがつくったものです。残念ながら,阪神大震災のおり,鉄製に変わってしまいました。個人的には 何か ありがたみが薄れたような,日本の伝統文化が又一つ消えたような 寂しい気がしてならないのですが・・・・・・。

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神様を祭る

2007/02/18(Sun)20:48

  エー マア そうした宗教的背景があって 菅原道真公死後,清涼殿落雷事件,政敵の死亡 怨霊への畏怖という発想から菅原道真公イコール天神という発想になったようです。ですから,日本のすべての天神が 菅原道真公を祭神とする京都北野の天神を勧請しているわけではありません。勧請(かんじょう)とは仏を祀ってあるところから他のところに移すことです。いわば分骨ですね。お寺などで多宝塔とかがありますが,これなどは原則はお釈迦様の髪の毛だとか爪の一部だとを保管するところなんですが,そんなにあるはずがないので,仏典などが納められている(はずの)ところです。こういった分社の発想は元々の神道には無かったはずなのです。これは,神仏習合の習いで興ってきたと思うのですが,・・・・・・・ちょっと頭が痛くなってきましたね。

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天神信仰

2007/02/17(Sat)20:46

  さて 天神信仰は道真公が最初ではなく,日本の古くからの信仰の対象でした。これは日本で けっこう落雷が多かったからのようです。各地に天神社があって,神格は天降る雷神で,あの「風邪引いてまんねん」の風神雷神で 雷光をもってその象徴としていたようです。
  昔,岸和田の桑畑にある雷神が落ち,深い井戸にはまったのですが,その桑畑で働いていたお百姓さんに厚いもてなしをうけました。それ以降,雷が鳴ったら「くわばら,くわばら」と唱えたら,雷神様は落ちてこないそうです。明日,ゴルフにいくあなた,一度試して下さい。

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あなたは大丈夫?

2007/02/16(Fri)20:46

 心にちょっとでもやましい気持ちがある人には やはり,2年というあっけない死亡の通知によって悔恨の気持ちに苛まされて,夜な夜な夢枕にでてきたのでしょうか。誰ですか,美人の幽霊だったらいいとおっしゃるのは。これもなかなか怖いものですよ。でも 本当は死霊より生霊(いきりょう)の方が怖いらしいです。生霊とは 生きている人がひどく恨んだら,生きているにも関わらず,分霊して憎しみを抱く人にまとわりつくといったものだそうです。ほら,あなたの後ろに・・・・・・・。ああ 怖い・・・ 

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人間から神様へ

2007/02/16(Fri)20:45

 道真公が亡くなりこれで終わりであれば普通の人なのですが,ここからおもしろいのが,道真公がなくなってから 道真公の政敵の藤原時平が これまた39歳の若さで没したり,皇太子に様々な不幸が起こり,さらに清涼殿に 雷が落ち,廷臣が死傷したりするという事故が起こったから大変です。道真公の怨念と騒がれました。それからの数年間は落雷災難が頻繁に起こったそうです。これらの災害を恐れて 菅原道真公の怨霊を沈めるために 菅原道真公は本官に復され,一条天皇の正歴4年(993年)正一位太政大臣の極官位を賜り,さらに京都 北野に神社が建てられ,天満宮天神として道真公が祀られたのです。そして,この神は観音の化身といわれ,今でも冤罪の人を助けたり,学問の神様として信仰されています。太政威徳天,天満大自在天とも呼ぶようです。これは本当か嘘か知りませんが,死後50年間 菅原道真公の霊が数度託宣(お告げ)し,その霊の威力が当時の人々に畏怖されたと言われます。

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道真さんの最期

2007/02/16(Fri)20:41

さて 菅原道真公は昌泰4年(901)左大臣藤原時平の策略によって太宰府に左遷され、延喜3年(903)になくなります。享年59歳。いやはや 右大臣にあがってからの2年間,太宰府に 流されるのが決まってからの2年間,菅原道真公の人生の最期の約4年間は急転落の本当に涙を誘う4年でした。太宰府では病気と無聊(ぶりょう:退屈なこと)に悩まされたそうです。念仏読経を事とし,時々 往事を偲んで詩歌をつくったりして京の都に帰ることを祈っていたのですが,やがてそれもあきらめ,仏道に沈潜したようです。しかし大臣という栄光を極めた人にとっては かわいそうな最期です。遺体は遺言によって太宰府に葬られ,後にそこに安楽寺が建てられ それが今の太宰府天満宮になったそうです。

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哀れ,道真さん

2007/02/02(Fri)15:13

 道真公は太宰府に流されてからは いい生活とはいえませんでした。都の貴族ですから、それなりの待遇はあったと思いますが、それでも憎まれての左遷ですからね。今でしたら、心機一転 がんばれば、戻ってこれることもあり得ますでしょうが,当時の藤原氏の勢力は並大抵ではなかったのです。しかし歴史的に見ると気合いで復活した人もいます。承久の変で隠岐に流された後醍醐天皇も自力で帰ってきて復活したし、現代サラリーマンでも そのような人を私も知っています。もっとも寅さんではないけれど目方や気合いやだけで 男が量れたら 私なんかももっといい暮らしが送れるのでしょうけれども・・・・・・・・・・グスン。

No.27|菅原道真Comment(0)Trackback(0)

東風の歌

2007/02/02(Fri)15:04

 春になり 東風の吹く頃、この庭(今住んでいる京にある)の梅の花よ、必ず咲いておくれ、たとえ あるじは太宰府に流されていないとしてもどうか春を忘れないでおくれ、梅が咲けば、その匂いは東風にのって太宰府までとどくであろうから・・・・・・・。

といった感じでしょうか。目をつむってこの詩を詠んでいる情景を思い浮かべてください。広い庭の大きな梅の木と対峙して、道真公が梅の木に語りかけながら(たぶんいろいろな思い出を共有していた梅なんでしょう)政争に負けて如何ともし難い思いを、はかなさを詠んだ

歌です。さらに、この歌は 今いる京と まだ見ぬ不安のいっぱいな太宰府を風で結ぶことによって雄大なスケール感を感じさせる、そんなところも私は好きなのです。

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いよいよ左遷:道真

2007/02/02(Fri)14:58

さて お話を元に戻して,菅原道真さんですが,この右大臣職は藤原家の牽制のために 宇多天皇が任命したのです。しかし 藤原時平は菅原道真を失脚させようとするのです。

 菅原道真が右大臣になったのは,宇多天皇が理想に思っていた政治ができなくて,次の帝に位を譲るに当たり 藤原氏の牽制の意味がありました。そして899年に右大臣職に就いたのですが,2年後の901年(延喜元年)の正月,先帝を欺き今上天皇を廃して別の天皇を立てる企てを持ったという理由で太宰権帥として左遷が決まりました。この処分は宇田上皇に知らされず,即座に断行されたため,どうしようもなかったようです。後年,様々な人が検証しましたが,確かに,菅原道真の娘が天皇の弟の斉世親王(ときよしんのう)に嫁いではいましたが,どうも そのような気配はなく,無実であったと考えられています。

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出る杭は打たれる:道真

2007/02/02(Fri)14:53

さて最高の昇進を遂げ,かつ当時の宇多天皇の信頼を一身に受けてきた菅原道真公ですが,当時は藤原氏の力が強く,ぼちぼち出る杭を打ち始めるようになります。 
 菅原道真公は その後 権大納言を経て昌泰2年(899)五十四歳で右大臣となりました。時の左大臣は藤原時平です。これは藤原氏にとっては大変な屈辱だったと思います。藤原鎌足(大化改新)以降,常に政治の最高峰に経ってきた藤原氏と比肩するところに菅原道真がついたのですから,烈火のごとく怒ったと思います。

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ジェラシーと出世:道真 危うし

2007/02/02(Fri)14:48

 さて宮中では最初に少内記となり詔勅の起草に当たり,民部少輔に転じて民政のことを司りました。貞観19年33歳の時式部少輔となり,文章博士を兼ねました。この二官は父祖共任ぜられたものであり 当時の学者の最高の名誉としたところのものであったようです。しかし学者が宮中にはいるのはどちらかというと嫌われて 菅原道真のように 博士の資格を持つ官は風当たりの強いものであったようです。当時は互いに熾烈な競争して相手をそしり,人を失敗に陥れるようなことがありました。スキャンダルをリ-クする官がいるのは 今だけではありません。   

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国家試験:成績優秀な道真

2007/02/02(Fri)14:46

 貞観4年 18歳で文章生となり,同9年文章得業生に進み,同18年には最高の国家試験である方略試に合格しました。今で言う上級国家公務員試験ですね。当時は勤めるところが大手民間企業など無かったから宮中に入らなければならない,そこで出世するにはこの試験に受からなければならない。ということで大変だったようです。これは唐の科挙(かきょ)という官吏登用試験制度をまねたもののようですが,やはり今と同じで予備校もあったということです。道真公が 後日 その頃を述懐した詩の中に「日月は常に足らなかった。寸分を惜しんで友人と談笑もせず,妻子と親しみもしなかった」と詠っています。そうしてやっと官途につけたわけです。今,受験地獄とか言われますが,当時の方が もっと大変だったのかもわかりません。

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道真の文才

2007/02/02(Fri)14:43

 今まで菅原道真の栄光から失脚までを概論的に述べてきましたがもう少し細かくお話を致します。

 菅原道真の父祖2代にわたって高名な学者であったのですが,菅原道真自身も非常な勉強家でした。それには母の良妻賢母ぶりが伝わっています。道真は是善の第三子でしたが,多分早世したらしく兄たちのことはあまり伝わっていません。昔は医学があまり発達していなかった

ために 若死にすることが多かったようです。道真は一家の期待を込めて育てられ,その母は幼き道真の健康に気を使いながらも 家風を継いで立派な学者になるよう日夜肝胆を砕いたようです。いわば今の教育ママですね。道真は11歳で初めて作詩をしたそうです。作詩といっても 今の詩ではなく漢詩ですよ。

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菅原道真の経歴

2007/02/02(Fri)14:41

 さて菅原道真さんは寛平3年(891)蔵人頭となり,同6年(894)遣唐使に任命されましたが,その廃止を提案し,実施されました。これ以降 遣唐使は廃止になったのです。遣隋使が推古天皇の西暦645年ですから約150年続いていたわけです。この廃止の理由はいろいろ

いわれています.菅原道真が進言したのは貴族の惰弱な面だと主張する人もいるようですが,この遣唐使派遣も前回から56年の歳月が経っていたし(毎年送っていたわけではないのです),途中遭難の恐れも今とは違って大いにあったし,やはり 唐自身の勢力が無くなったのが第一でしょう.ちなみに唐が晋に滅ぼされたのが936年です。

 その後 道真公は 権大納言を経て昌泰2年(899)後醍醐天皇の時 右大臣にまで昇進しました。しかし延喜4年(901)藤原時平のために太宰府に左遷されることになりました。そして菅原道真公の一家は息子達も地方にとばされて 一家離散の憂き目にあいました。

その当時の権力争いは すごいものがあったんでしょうね。しかしそれが故に菅原道真公が有名になり 神にまでなったのです。そのきっかけはまた 偶然の時代背景と重なりがあり,いと おかしきことです。

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菅原道真の和歌

2007/02/02(Fri)14:39

菅原道真さんは前回もいったように文才に恵まれ,多くの詩歌を残しています。みなさんもご存じの小倉百人一首にも選ばれています。
 
        このたびは ぬさもとりあえず 手向山
                  もみぢのにしき かみのまにまに
                                                             菅 家
 
※このたび・・「この度」と「この旅」の掛詞
 ぬさ・・・・・・(幤帛)神に供えたり祈るときに捧げるお供え物で小さく切った絹布や紙でできたもので 神主さ
んがお払いで振っているのをよく見かけますね。それよりもっと大きなものをイメージして下さい。
 神のまにまに・・神の御心に任せます
菅家・・・・・・・菅原道真の敬称
 
歌意:今度の旅はお供の慌ただしさで幣帛(ぬさ)も用意す
ることができませんでした。ですから,この手向け山のもみじの美しい錦織のようなのを神の御心のままに幣帛としてお受け取りください。

 もみじの美しさが目に映り厳粛なる精神が伝わってくるような感じがしませんか。ところで みなさん 「もみじ」という字は「紅葉」とも「黄葉」とも書けるのをご存じでしたか。ただそれだけの話ですが・・・

 「菅家」菅原道真の尊称です。この歌は宇田上皇の吉野の宮滝御幸に供奉したときのものだそうです。

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