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天神さん,菅原道真さんを携帯で気軽に読める小説に仕立てました。 モバイスでも読んで下さい。
2007/10/29(Mon)19:20
No.11|菅原道真|Comment(0)|Trackback
2007/10/22(Mon)19:16
話を戻して父である菅原是善さんも祖父も文学では有名な方でした。道真さん自身も幼き頃から文才に恵まれ,いろいろな逸話と和歌,著書などを残しています。17歳で文章生(もんじょうしょう),32歳で文章博士となったことからも 学問文才に恵まれた方であったことがわかります。当時の宇多天皇の信任を得て 藤原氏を押さえるために重徴されました。編書として「日本三代実録」「類聚国史」 詩文書「菅家文草」「菅家後集」などが有名です。
No.8|菅原道真|Comment(0)|Trackback
2007/10/18(Thu)19:11
No.6|菅原道真|Comment(0)|Trackback
2007/02/23(Fri)01:02
No.37|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/20(Tue)20:52
No.34|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/18(Sun)20:48
No.33|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/17(Sat)20:46
No.32|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/16(Fri)20:46
心にちょっとでもやましい気持ちがある人には やはり,2年というあっけない死亡の通知によって悔恨の気持ちに苛まされて,夜な夜な夢枕にでてきたのでしょうか。誰ですか,美人の幽霊だったらいいとおっしゃるのは。これもなかなか怖いものですよ。でも 本当は死霊より生霊(いきりょう)の方が怖いらしいです。生霊とは 生きている人がひどく恨んだら,生きているにも関わらず,分霊して憎しみを抱く人にまとわりつくといったものだそうです。ほら,あなたの後ろに・・・・・・・。ああ 怖い・・・
No.30|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/16(Fri)20:45
No.29|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/16(Fri)20:41
No.28|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)15:13
道真公は太宰府に流されてからは いい生活とはいえませんでした。都の貴族ですから、それなりの待遇はあったと思いますが、それでも憎まれての左遷ですからね。今でしたら、心機一転 がんばれば、戻ってこれることもあり得ますでしょうが,当時の藤原氏の勢力は並大抵ではなかったのです。しかし歴史的に見ると気合いで復活した人もいます。承久の変で隠岐に流された後醍醐天皇も自力で帰ってきて復活したし、現代サラリーマンでも そのような人を私も知っています。もっとも寅さんではないけれど目方や気合いやだけで 男が量れたら 私なんかももっといい暮らしが送れるのでしょうけれども・・・・・・・・・・グスン。
No.27|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)15:04
春になり 東風の吹く頃、この庭(今住んでいる京にある)の梅の花よ、必ず咲いておくれ、たとえ あるじは太宰府に流されていないとしてもどうか春を忘れないでおくれ、梅が咲けば、その匂いは東風にのって太宰府までとどくであろうから・・・・・・・。
といった感じでしょうか。目をつむってこの詩を詠んでいる情景を思い浮かべてください。広い庭の大きな梅の木と対峙して、道真公が梅の木に語りかけながら(たぶんいろいろな思い出を共有していた梅なんでしょう)政争に負けて如何ともし難い思いを、はかなさを詠んだ
歌です。さらに、この歌は 今いる京と まだ見ぬ不安のいっぱいな太宰府を風で結ぶことによって雄大なスケール感を感じさせる、そんなところも私は好きなのです。
No.24|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:58
さて お話を元に戻して,菅原道真さんですが,この右大臣職は藤原家の牽制のために 宇多天皇が任命したのです。しかし 藤原時平は菅原道真を失脚させようとするのです。
菅原道真が右大臣になったのは,宇多天皇が理想に思っていた政治ができなくて,次の帝に位を譲るに当たり 藤原氏の牽制の意味がありました。そして899年に右大臣職に就いたのですが,2年後の901年(延喜元年)の正月,先帝を欺き今上天皇を廃して別の天皇を立てる企てを持ったという理由で太宰権帥として左遷が決まりました。この処分は宇田上皇に知らされず,即座に断行されたため,どうしようもなかったようです。後年,様々な人が検証しましたが,確かに,菅原道真の娘が天皇の弟の斉世親王(ときよしんのう)に嫁いではいましたが,どうも そのような気配はなく,無実であったと考えられています。
No.21|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:53
No.18|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:48
さて宮中では最初に少内記となり詔勅の起草に当たり,民部少輔に転じて民政のことを司りました。貞観19年33歳の時式部少輔となり,文章博士を兼ねました。この二官は父祖共任ぜられたものであり 当時の学者の最高の名誉としたところのものであったようです。しかし学者が宮中にはいるのはどちらかというと嫌われて 菅原道真のように 博士の資格を持つ官は風当たりの強いものであったようです。当時は互いに熾烈な競争して相手をそしり,人を失敗に陥れるようなことがありました。スキャンダルをリ-クする官がいるのは 今だけではありません。
No.17|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:46
貞観4年 18歳で文章生となり,同9年文章得業生に進み,同18年には最高の国家試験である方略試に合格しました。今で言う上級国家公務員試験ですね。当時は勤めるところが大手民間企業など無かったから宮中に入らなければならない,そこで出世するにはこの試験に受からなければならない。ということで大変だったようです。これは唐の科挙(かきょ)という官吏登用試験制度をまねたもののようですが,やはり今と同じで予備校もあったということです。道真公が 後日 その頃を述懐した詩の中に「日月は常に足らなかった。寸分を惜しんで友人と談笑もせず,妻子と親しみもしなかった」と詠っています。そうしてやっと官途につけたわけです。今,受験地獄とか言われますが,当時の方が もっと大変だったのかもわかりません。
No.16|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:43
今まで菅原道真の栄光から失脚までを概論的に述べてきましたがもう少し細かくお話を致します。
菅原道真の父祖2代にわたって高名な学者であったのですが,菅原道真自身も非常な勉強家でした。それには母の良妻賢母ぶりが伝わっています。道真は是善の第三子でしたが,多分早世したらしく兄たちのことはあまり伝わっていません。昔は医学があまり発達していなかった
ために 若死にすることが多かったようです。道真は一家の期待を込めて育てられ,その母は幼き道真の健康に気を使いながらも 家風を継いで立派な学者になるよう日夜肝胆を砕いたようです。いわば今の教育ママですね。道真は11歳で初めて作詩をしたそうです。作詩といっても 今の詩ではなく漢詩ですよ。
No.14|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:41
さて菅原道真さんは寛平3年(891)蔵人頭となり,同6年(894)遣唐使に任命されましたが,その廃止を提案し,実施されました。これ以降 遣唐使は廃止になったのです。遣隋使が推古天皇の西暦645年ですから約150年続いていたわけです。この廃止の理由はいろいろ
いわれています.菅原道真が進言したのは貴族の惰弱な面だと主張する人もいるようですが,この遣唐使派遣も前回から56年の歳月が経っていたし(毎年送っていたわけではないのです),途中遭難の恐れも今とは違って大いにあったし,やはり 唐自身の勢力が無くなったのが第一でしょう.ちなみに唐が晋に滅ぼされたのが936年です。
その後 道真公は 権大納言を経て昌泰2年(899)後醍醐天皇の時 右大臣にまで昇進しました。しかし延喜4年(901)藤原時平のために太宰府に左遷されることになりました。そして菅原道真公の一家は息子達も地方にとばされて 一家離散の憂き目にあいました。
その当時の権力争いは すごいものがあったんでしょうね。しかしそれが故に菅原道真公が有名になり 神にまでなったのです。そのきっかけはまた 偶然の時代背景と重なりがあり,いと おかしきことです。
No.13|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/02(Fri)14:39
もみじの美しさが目に映り厳粛なる精神が伝わってくるような感じがしませんか。ところで みなさん 「もみじ」という字は「紅葉」とも「黄葉」とも書けるのをご存じでしたか。ただそれだけの話ですが・・・
「菅家」菅原道真の尊称です。この歌は宇田上皇の吉野の宮滝御幸に供奉したときのものだそうです。
No.12|菅原道真|Comment(0)|Trackback()