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2009/07/16(Thu)20:12
何でか知らないが,にんじゃつーるPRがでてくる
邪魔で仕方ない
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No.38|雑学|Comment(0)|Trackback()
2007/10/29(Mon)19:20
話を元に戻して 野見宿禰は垂仁天皇の皇后の日葉酢媛(ひよすひめ)が崩御されたとき,殉死の禁が発せられると 埴輪をもって殉死に代えることを提案した人です。それによって土師部(はじべ)の姓を賜ったということです。しかし土器の制作と葬礼を司る職なので高級貴族の仲間入りはできなかったようです。しかし桓武天皇の外祖母が土師部出身だったことから幸運が訪れ,やがて菅原,大江,秋篠に分家し 発展したようです。土師部から菅原家への移行のいきさつはよく知りません。どなたか教えてください。
No.11|菅原道真|Comment(0)|Trackback
2007/10/27(Sat)19:19
もう20年近く前ですが,私は当麻寺が改築されたときに,是非にと 当時の建築歴史専門の内藤昌先生から勧められて見学にいきました。このときは名古屋の大学にいたのですが お金もなくて(今もそうですが)友人二人の貧乏旅行で,近鉄電車の各停に乗り,ユースに泊まって奈良周辺の見学旅行の思い出があります。尚,内藤先生とは例の安土城が六角形をしていたという事を主張し,建築史上センセーショナルな議論となり 今は その形の奇妙さ故に六角形の安土城が一般的になっています。
No.10|当麻寺|Comment(0)|Trackback
2007/10/25(Thu)19:18
ところで 菅原家の先祖はどなたかご存じですか。そう,野見宿禰(のみのすくね)です。
野見宿禰さんとは天穂日命の裔で菅原家や秋篠家 大江家の先祖です。野見宿禰で有名なことは,垂仁天皇の命により,当麻蹶速(たいまのけはや)と力を競って見事に倒したことです。この戦いが 現在の大相撲の起源だといわれています。当麻蹶速は その当時の乱暴者の力持ちで 今は,相撲の神様になっています。奈良の香芝の先に当麻寺(たいまでら)というのがあり,相撲博物館もそのそばにあります。當麻町(たいまちょう)ではボランティアで子供たちに相撲を教えている人もいると聞いています。
No.9|天満宮|Comment(0)|Trackback
2007/10/22(Mon)19:16
話を戻して父である菅原是善さんも祖父も文学では有名な方でした。道真さん自身も幼き頃から文才に恵まれ,いろいろな逸話と和歌,著書などを残しています。17歳で文章生(もんじょうしょう),32歳で文章博士となったことからも 学問文才に恵まれた方であったことがわかります。当時の宇多天皇の信任を得て 藤原氏を押さえるために重徴されました。編書として「日本三代実録」「類聚国史」 詩文書「菅家文草」「菅家後集」などが有名です。
No.8|菅原道真|Comment(0)|Trackback
2007/10/19(Fri)19:14
そう考えると“男もすなる日記というものを我もせんとしてすなり(あやふやな記憶です)”で始まる土佐日記は実際は紀貫之のものなんですが,当時の日記は男の人が漢文調で書くのが常だったので このような書き出しでひらがな調で書き出したのはよほど 洒落者だったんでしょうね
No.7|天満宮|Comment(0)|Trackback
2007/10/18(Thu)19:11
さてさて 道真さんのお父さんは菅原是善,お母さんは伴氏の系列の方のようです。伴氏は大伴の系列です。伴大納言とか,大伴家持など これ又 文学に関係の深い家系です。ところで当時は女性の名前は公式文書にははっきり記載されていなくて,たとえば“右大将道綱母”とは藤原道綱の母といった表現になっており,正式な名前は残っていないそうです。清少納言も清原元輔の娘だったために清原家の少納言といういわば家の中での位置づけが通称となったものです。どうもニックネームが今では正式名称で残っているようですね。
No.6|菅原道真|Comment(0)|Trackback
2007/10/12(Fri)19:06
この時代は京に都が移されてまだ約50年から100年の時代です。794年,鳴くよウグイス平安京などと記憶した人も多いのではないですか。太平洋戦争が終わって今は52年です。明治維新から 110年,平安の昔は時間のたつのもそれほど早くなかっただろうから 世の中も安定というところまではいっていなかったのではなかったでしょうか。しかしあの平安の頃のゆったりした雅の世界をイメージしてもらってその余韻の中で,次回へと続きます。
No.5|天満宮|Comment(0)|Trackback
2007/10/10(Wed)19:03
菅原道真公
天満宮にお祭りされている菅原道真公は承知12年(845)に生まれ,延喜3年(903)に亡くなったのです。平安時代の初期で今から1千年以上前のことです。延喜とは あの延喜格式のできた時代です。懐かしいですね。中学校以来ですか。格式とは“きゃくしき”と読み,いわば法律の一種です。“格”は律令の改正補充をしたもの,“式”は律令の施行細則です。ただ 当時の法律の概念は今のものとは 多少趣が違っていて,宮中の式典の慣習の規準書のようなもので,宮中の年中行事の式次第とか諸官庁の慣行例とかも書いているそうです。延喜格式の他に弘仁格式,貞観格式などがあります。
No.4|天神|Comment(0)|Trackback
2007/10/08(Mon)08:00
先日,私の友人から聞いた話ですが,この辺りで ある若い女性に「天神さんはどこですか」と尋ねたら,彼女曰く,「お祭りの屋台が出るのは川筋だけれど天満宮の場所は知らない」ということだったようです。これでは菅原道真公も梅の木陰で泣いているのではないでしょうか。そこで ちょっと私なりに調べたことを書いてみようと言う気になりました。記録に残したら 誰かに読んでもらいたいのは人情です。硬軟織り交ぜて 数回に分けて書いてみようとおもいますので ちょっとおつきあい下さい。
もし間違ったことなど書いておれば ご一報いただきましたら幸いです。
No.3|天神|Comment(0)|Trackback
2007/10/07(Sun)09:56
天神さんという名前は多分ほとんどの人がご存じだと思います。“菅原道真公が祭られているお宮さんで他に有名ところは,九州太宰府天満宮,京都北野天満宮がある”ぐらいの知識はお持ちでしょう。大阪の天満宮は初詣もさることながら7月24日から25日にかけて天神祭りが行われ,天下の三大祭りの一つとして名高いものです。しかし,それ以外は何か存在感が感じられないのは私だけでしょうか。さりとて この地域にすんでいる人,この地域に働きに来ている人,様々にこの地域に関わっている人がいると思いますが 多分 大なり小なり 天神さんに親しみを感じているのではないでしょうか。
No.2|天満宮|Comment(0)|Trackback
2007/02/23(Fri)01:02
昭和30年頃から始まった高度成長時代に 市民の都市集中化が起こり,経済力のアップに伴って“持ち家思考”が生まれました。
歴史的に見ると 日本は賃貸住宅型で 経済力のある大家さんが借家を建て,そこに田舎からきた人が借りるというのが本流だったのです。今は亡き加藤大介主演映画の“大将”(だったと思うのですが)を見ていると愛媛の片田舎から出てきた主人公が 相場で商いし裕福になるに従って,間借り→借家→瀟洒な一軒家→
豪邸,そして それを手放すといった社会の縮図のようなものが描かれています。私は思うのですが,住宅というものは 本来 建てられる人がゆとりを持って建て,メンテナンスにもある程度お金をかけるというようなものではないかと思うのです。今 やすく建てることにより,日本人の美意識にも関わる“長押”“床の間”などが無い家が増えきている。寂しいことです。
No.37|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/22(Thu)01:59
鎌倉時代には両部,山王一実,伊勢諸神道が起こり,室町時代には唯一神道が唱えられました。江戸時代には儒学と結びついた理当心地,垂加,吉川の諸神道が盛んとなり,一方,本居宣長の復古神道が興ったのもこの時代です。末期には富士講,黒住教,天理教,金光教など教派神道が生まれました。明治維新と共に神仏分離令が出され,新政府は神社を国家の宗祀とし,祭祀を国家中心で行うこととし 廃仏毀釈の風が日本全国を揺さぶったのです。そして 第2次世界大戦後1945年のGHQによる「神道指令」で,神道は国家行事から切り離され今日に及んでいます。
今から30年ぐらい前の家では,仏壇と神棚が祀られていたと思うのですが,それが神仏習合の名残りですね。最近は住宅の面積も小さくなったためと住意識の変化でそこまでしていない家もあるようです。
No.36|天神|Comment(0)|Trackback()
2007/02/21(Wed)20:54
話を元に戻して 律令体制のもとに朝廷では 神祇官がおかれ社格の決定,神領,封戸の献進,幣帛の供進が行われ,宮廷儀式として制度化していきました。神領,封戸の献進は 荘園制のはしりですね。平安時代には仏教と習合して本地垂迹説が現れました。懐かしいですね。中学の時に習ったでしょう。本地垂迹説とは 「菩薩やブッダが仮に神の姿をとって垂迹する」という説です。垂迹とは 仏が衆生を救うために生まれ変わってこの世に出現することです。ですから,お釈迦様と大日如来とが対応し,○○菩薩と◇◇如来とが対応するという説です。この考えは奈良時代からあったようですが,平安時代に一般化したようです。
No.35|天神|Comment(0)|Trackback()
2007/02/20(Tue)20:52
ちょっと 堅くなりますが,少し 神道のことをお話ししましょう。でも 後半部分は諸説入り乱れていますので,それを念頭において お読み下さい。
神道は 憔神道(かんながらのみち)とも言われる日本固有の民俗信仰です。・・・・・年輩諸兄は 既にご存じかと思いますが 若い人のために少々おつきあい下さい。私は若いけれど知ってましたよ。えっ もう若くない?これはお見それしました。
続いて言いますと 特定の神域に神饌(しんせん)をそなえ,音楽歌舞で神を慰め,恵みを請う呪術から出発し,やがて社(やしろ)を建て,そこに神を祀るようになりました。
神社には必ずある鳥居の起源ですが,東南アジアのある民族の住宅の門がちょうど鳥居状になっていて その門構えの上に木で作った「鳥」の飾りものがあるというのをTVでみたことがありますが,建築家としては ちょっと気になりますね。ちなみに 北区の我らが天神さんの鳥居ですが,前のものは石でできていて,このご近所の石船石材さんがつくったものです。残念ながら,阪神大震災のおり,鉄製に変わってしまいました。個人的には 何か ありがたみが薄れたような,日本の伝統文化が又一つ消えたような 寂しい気がしてならないのですが・・・・・・。
No.34|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/18(Sun)20:48
エー マア そうした宗教的背景があって 菅原道真公死後,清涼殿落雷事件,政敵の死亡 怨霊への畏怖という発想から菅原道真公イコール天神という発想になったようです。ですから,日本のすべての天神が 菅原道真公を祭神とする京都北野の天神を勧請しているわけではありません。勧請(かんじょう)とは仏を祀ってあるところから他のところに移すことです。いわば分骨ですね。お寺などで多宝塔とかがありますが,これなどは原則はお釈迦様の髪の毛だとか爪の一部だとを保管するところなんですが,そんなにあるはずがないので,仏典などが納められている(はずの)ところです。こういった分社の発想は元々の神道には無かったはずなのです。これは,神仏習合の習いで興ってきたと思うのですが,・・・・・・・ちょっと頭が痛くなってきましたね。
No.33|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/17(Sat)20:46
さて 天神信仰は道真公が最初ではなく,日本の古くからの信仰の対象でした。これは日本で けっこう落雷が多かったからのようです。各地に天神社があって,神格は天降る雷神で,あの「風邪引いてまんねん」の風神雷神で 雷光をもってその象徴としていたようです。
昔,岸和田の桑畑にある雷神が落ち,深い井戸にはまったのですが,その桑畑で働いていたお百姓さんに厚いもてなしをうけました。それ以降,雷が鳴ったら「くわばら,くわばら」と唱えたら,雷神様は落ちてこないそうです。明日,ゴルフにいくあなた,一度試して下さい。
No.32|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/16(Fri)20:46
心にちょっとでもやましい気持ちがある人には やはり,2年というあっけない死亡の通知によって悔恨の気持ちに苛まされて,夜な夜な夢枕にでてきたのでしょうか。誰ですか,美人の幽霊だったらいいとおっしゃるのは。これもなかなか怖いものですよ。でも 本当は死霊より生霊(いきりょう)の方が怖いらしいです。生霊とは 生きている人がひどく恨んだら,生きているにも関わらず,分霊して憎しみを抱く人にまとわりつくといったものだそうです。ほら,あなたの後ろに・・・・・・・。ああ 怖い・・・
No.30|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/16(Fri)20:45
道真公が亡くなりこれで終わりであれば普通の人なのですが,ここからおもしろいのが,道真公がなくなってから 道真公の政敵の藤原時平が これまた39歳の若さで没したり,皇太子に様々な不幸が起こり,さらに清涼殿に 雷が落ち,廷臣が死傷したりするという事故が起こったから大変です。道真公の怨念と騒がれました。それからの数年間は落雷災難が頻繁に起こったそうです。これらの災害を恐れて 菅原道真公の怨霊を沈めるために 菅原道真公は本官に復され,一条天皇の正歴4年(993年)正一位太政大臣の極官位を賜り,さらに京都 北野に神社が建てられ,天満宮天神として道真公が祀られたのです。そして,この神は観音の化身といわれ,今でも冤罪の人を助けたり,学問の神様として信仰されています。太政威徳天,天満大自在天とも呼ぶようです。これは本当か嘘か知りませんが,死後50年間 菅原道真公の霊が数度託宣(お告げ)し,その霊の威力が当時の人々に畏怖されたと言われます。
No.29|菅原道真|Comment(0)|Trackback()
2007/02/16(Fri)20:41
さて 菅原道真公は昌泰4年(901)左大臣藤原時平の策略によって太宰府に左遷され、延喜3年(903)になくなります。享年59歳。いやはや 右大臣にあがってからの2年間,太宰府に 流されるのが決まってからの2年間,菅原道真公の人生の最期の約4年間は急転落の本当に涙を誘う4年でした。太宰府では病気と無聊(ぶりょう:退屈なこと)に悩まされたそうです。念仏読経を事とし,時々 往事を偲んで詩歌をつくったりして京の都に帰ることを祈っていたのですが,やがてそれもあきらめ,仏道に沈潜したようです。しかし大臣という栄光を極めた人にとっては かわいそうな最期です。遺体は遺言によって太宰府に葬られ,後にそこに安楽寺が建てられ それが今の太宰府天満宮になったそうです。
No.28|菅原道真|Comment(0)|Trackback()